2021-02-24 第204回国会 衆議院 財務金融委員会 第6号
その渋沢栄一公を、二〇一九年の四月の九日、当時の大久保利通のやしゃごであられる麻生先生が、新一万円札に渋沢栄一をされるということでありましたし、それから津田梅子さんも、あのときの岩倉具視使節団に六歳で一緒に同行されています。そして津田塾をつくる、それから英語教育の最初ということをやり遂げられるということもあります。
その渋沢栄一公を、二〇一九年の四月の九日、当時の大久保利通のやしゃごであられる麻生先生が、新一万円札に渋沢栄一をされるということでありましたし、それから津田梅子さんも、あのときの岩倉具視使節団に六歳で一緒に同行されています。そして津田塾をつくる、それから英語教育の最初ということをやり遂げられるということもあります。
津田梅子という人も、これは日本で初めてで、たしか岩倉具視と一緒に初めて留学して海外に行ったまま日本に帰ってこず、そのまま残ったのかなんかして、とにかく、学校をその後、教育やら何やらでえらい発展して、最初のキャリアウーマンじゃないかと思うぐらい、明治の維新で頑張られた最初の帰国子女であったんだろうと思いますし、北里先生はもうペスト菌やら何やら有名な方だと思いますので。
○国務大臣(麻生太郎君) こういった他国に比べまして日本の公文書館が著しくみすぼらしいと、これは歴史的に岩倉具視使節団に遡って具合が悪いんだと思っております。同行した大久保利通始め皆、絵画館、図書館、いろんなところへ行ったんですけど、公文書館とか行っていませんもんね。記録を調べられたら分かると思いますが、公文書館には行っておらぬのですよ、岩倉具視一行は。
これは随分長いこと取り組まさせていただいて、今少しずつでき上がりつつあるときになったんですが、日本の場合は、多分、薬師寺先生、これ歴史的に、岩倉具視という方が海外に使節団として行かれたときに、西欧諸国で少なくとも図書館とか絵画館とか国会とか中央銀行とかいろんなものを見学されて、それなりに明治の時代に持ち込まれて、それを必死になってつくられていったんですが、公文書館というのは見なかったんですね、あのとき
百五十年前、誕生したばかりの明治国家にあって、近代化を牽引した岩倉具視はこう述べています。国民みんなが心を一つにして、国力を盛んにするならば、世界で活躍する国になることも決して困難ではない。明治の日本人にできて、今の日本人にできないわけはありません。
これは岩倉具視の手抜きなんだと確信していますよ。絵画館も見た、美術館も見た、みんな見たよ、だけど公文書館見るのを忘れたんだよね。間違いありません、記録が残っていませんから。だから、俺の祖先の大久保利通も行っていますよ、伊藤博文も行っている、みんな行って、公文書館行ったという記録が残っていませんから、見なかったんですよ、多分。
その当時の明治政府の中心にいたのは、草創の士、いわゆる下級武士、そして町人、各階層からの人々、そして岩倉具視を初めとして、下級公家と言われる方々が中心として明治政府を起こしました。そのときに何を一番最初に行ったのかというと、いわゆる上級公家、五摂家を廃止し、そして、天皇陛下が必ず横に置いておられた神祇官というのを廃止されました。
同時に、岩倉具視の言葉を引用され、明治の日本人にできて今の日本人にできないわけはないともおっしゃいました。 しかしながら、シリアのテロ事件、あるいはウクライナの問題、さらにはEUの経済、金融問題等、世界の政治経済状況は混迷をきわめ、緊張感が高まっています。それに日本がどう対応していくのか。
明治国家の礎を築いた岩倉具視は、近代化が進んだ欧米列強の姿を目の当たりにした後、このように述べています。日本は小さい国かもしれないが、国民みんなが心を一つにして、国力を盛んにするならば、世界で活躍する国になることも決して困難ではない。 明治の日本人にできて、今の日本人にできないわけはありません。今こそ、国民とともに、この道を前に向かって再び歩み出すときです。
明治国家の礎を築いた岩倉具視は、近代化が進んだ欧米列強の姿を目の当たりにした後、このように述べています。日本は小さい国かもしれないが、国民みんなが心を一つにして、国力を盛んにするならば、世界で活躍する国になることも決して困難ではない。 明治の日本人にできて、今の日本人にできないわけはありません。今こそ、国民とともに、この道を前に向かって再び歩み出すときです。
そういうことというのは、例えば明治維新を考えた場合に、明治維新の本質は何かと私が考えると、明治四年の岩倉具視使節団だと思っています。
岩倉具視団長一行が伊藤博文等々四十六名で、明治四年から明治七年にかけて、欧米のいわゆる国政の視察等に出ていきました。視察した国が全部二院制だったんです。そのときに、スウェーデンとデンマークは、確かにあのときは二院制だったんです。しかし、戦後、スウェーデン、デンマークは一院制にした。
ところが、明治二十年になって、岩倉具視の視察団がヨーロッパに行きまして、まあフランスとかいろいろな国に行ったんでしょうけれども、最後にドイツに行った。ドイツを強引に統合したビスマルクに会って、ドイツは近代化に確かに出おくれをとった、しかし今では成功しつつある、後発して先進国を目指す国家にとって何が必要かといったら、国民によらせろ、知らしちゃいけないと。
もしここで、我々はまだ若い世代ですけれども、明治の元勲の方々がいますよね、そういう方がこの場におられたらと想起するんですけれども、例えば、外務卿であった岩倉具視、そして副島種臣さん、そして外務大臣という名前に改称されてからの井上馨さん、伊藤博文公だとか大隈重信公、そして陸奥宗光公、いろいろとおられますけれども、そうした名立たる人物の名前が結構浮かんでくるんです。
明治四年に、幕藩体制から、三百諸侯に分かれておりましたものを少なくとも近代国家にするためには、工業化社会の当時においては間違いなく中央集権でやっていく以外に対抗できないという見解に基づいて、岩倉具視以下の海外使節団が帰国後、当時の国家目標を全部きちんと立てて、それを実行せしめるためにはということで、御存じのように版籍、廃藩置県等々、一連の中央集権制度をつくり上げて約百三十年がたったんだと思います。
岩倉具視は「天下億兆安泰」と言っていた。しかしながら、かかる「公」とか「天下」とかの文脈は人民が民主主義的に物事を決める意味を持っていない。なぜなら、大久保も岩倉も自分たちの主張するところが「公」であり、「天下」であったからである。国民、人民自身が政治に参加し、主体的に判断する余地は全くなかった。
○国務大臣(麻生太郎君) 岩本先生おっしゃいますように、明治四年、廃藩置県この方、少なくともあの時代に、かれこれ三百大名がいたわけですから、その大名のときに、やっぱりあのときの明治の先輩というか政治家の人たちは、岩倉具視の二年間の海外というので、あれが多分直接のきっかけだと思いますが、周りの状況から見て、このまま行ったらうちはロシアの植民地と、はっきりしているではないかと。
この点につきましては、坂野参考人から、明治憲法の基礎となった岩倉具視の大綱領は、実際には交詢社の起草した私擬憲法案を井上毅が保守的な方向で手直ししたものであって、その交詢社による草案が採用しておりましたのはイギリス型の議院内閣制であったというお話があったわけでありまして、改めてその思いを強くした次第であります。
その上で、伊藤博文の「憲法義解」や美濃部達吉の「憲法講話」等の諸資料からは、明治憲法が神権主義的な解釈からリベラルな解釈に至るまで多義的に解釈されていたことがわかるが、その理由は、明治憲法が、明治十四年四月に福沢諭吉を中心とした交詢社がイギリス型の議院内閣制を採用して起草したリベラルな私擬憲法案を、同年七月に井上毅が保守的な方向で手直しを行い、岩倉具視によって発表された大綱領を基礎としていたという制定過程
第一の点は、一八八一年七月、明治十四年七月に、岩倉具視が大綱領、小綱領という憲法構想を出します。これは井上毅が実質的に全部やったことは史料的に明らかであります。 問題は二つありまして、一つは、これを読むと、さっきあれした伊藤博文たち、一年半もヨーロッパに行って何してきたんだろう、遊んできたんじゃないかと思うぐらい、明治憲法の骨格はここでできております。
明治四年、岩倉具視が特命全権大使として欧米に出発したときの三条実美のはなむけの言葉を申し述べ、昨今の我が国政府の外交案件に対する基本的姿勢について質問をいたします。 三条実美は、外国の交際は国の安危に関し、使節の能否は国の栄辱にかかわると申されております。